白蘭の後ろを歩く。いつもと変わらない隊服。そして髪に飾られるのは裏切りの象徴、ダリアの花。

昨日は結局、眠ることができなかった。ここに来てからというもの、ろくな睡眠だなんてとれてはいなかったけれど。そんな僅かな睡眠は、弱りきった私の体には結構な負担となっていた。それでも、休む、なんて選択肢私にはないことなんて始めから明確で、私は今日と言う日を迎えなければならなかった。この選択をしたときから分かっていたことだと、何度も自分に言い聞かせるも、体が重いことには変わりはなく今からのことを考えると胸が痛い。


呼吸だって、まともにとれなくなってしまいそうだ。白蘭が立ち止まり、私もそれに合わせて立ち止まる。振り返った白蘭の顔は、やはりいつもと同じような笑顔で、いや、もしかしたらいつも以上の笑顔で私の顔を覗き込みながら「大丈夫、チャン。顔が真っ青だよ」と言った。

こみ上げる気持ち悪さを必死に抑える。滲む汗。血の気のない顔。


「大丈夫、です」


とてもじゃないけど、大丈夫なわけがなかった。今すぐにでも、倒れそうな体を意思だけで、つなぎ止める。白蘭はその返事に微笑を深くする。



「そう。今日は大切な日なんだから、無理だけはしちゃ駄目だよ」

「分かっています」

「そんな怖い顔しなくても、約束はちゃんと守るよ」



チャンがここにいる限りね、と言うと白蘭は再び前を向きなおし、行こうか、と言って歩き出した。
目指すのはあるホテルの一室。そこに集まるのは、ミルフィオーレボス白蘭、そしてボンゴレのボス、沢田綱吉。交戦真っ只中であるはずの、二つのマフィアが会合を行う理由。


それは、唯一つ。停戦の話し合いをするため。


私は今はボンゴレではない。だから、私はミルフィオーレのとして、この仕事を全うしよう。私のボスの、名は白蘭。私が従うべきなのは、白蘭の言葉にだけ。
そうやって自分に言い聞かせることで、私は自分の気持ちを落ち着かせていった。ツナ達から、何かを言われようとも、動じないようにしなければならない。今の私はボンゴレを裏切った女で、なければならないんだ。私がここにいる限り、白蘭がツナ達に手出しをしないというのなら、どんなことでもしよう。



「あ、」



白蘭が何かに気づいたかのように声を上げる。その声はまるで演技のように、あまり驚いたような声には聞こえなかった。



「どうかなさいましたか?」

「うーん、ちょっとね。今からの話し合いで使おうと思ってた書類忘れちゃったみたい」



この後の白蘭の言葉が私にはなんとなく予想できた。



チャン、とってきてくれるかな?」



悪びれた様子もない。それに、この言葉は絶対なんだろう。私はため息を一息つくと「分かりました」と言って白蘭の顔を見上げた。ありがとう、と気持ちのこもってもいない言葉を返され私は心にもない、と思った。それでも上司からの命令に従い今来た道を戻ろうと私は踵を返す。もし、忘れものに戻るまでにツナ達と会ったらどうしようか、と思い一歩踏み出すも「チャン」と私を呼ぶ声に制される。
後ろを振り返れば、すぐ傍にまで近づいていた白蘭。何か言おうと思い、私が口を開く前に白蘭が私の耳元に口を近づけた。

何かを言わなくてはと思っても言葉がでてこない。



「逃げたくなったら、逃げても良いんだよ」

「っ!」

「戻りたくないなら、ここに戻ってこなくてもよいから」



一緒に来い、と言った奴の言葉とはとても思えなかったら。逃げたくなったら逃げれば良い。戻りたくないなら戻らなくて良い。私には目の前の白蘭はツナ達にこの姿で会いたくないなら会わなくても良いと言っているようにも聞こえた。

私はこのまま逃げ続けるんだろうか。
ボンゴレを裏切った罪を認めぬまま、逃げて逃げて、私は何処に行くんだろうか。


私に逃げ場所なんてない。


ミルフィオーレに私の居場所なんてない。私の居場所があるのはボンゴレだけなのだから。




このまま逃げてしまおうか




できるわけがない。そんなこと白蘭がさせるはずがない。この男は、甘い言葉でひきつけて、その後絶望の顔へと変わっていくのを楽しむような男なんだ。私は逃げるわけにはいかない。ツナ達を守るために。こんな姿見られたくはないけれど、いつまでも逃げていることもできないんだ。いずれ、ボンゴレの情報網を駆使すれば私が何処で何をしているかなんてきっとバレてしまうだろう。
それなら、自らの手でバラしてしまった方がいっそ清清しいのかもしれない。私は白蘭にお辞儀して、再び踵を返して歩き出した。エレベーターに乗り込むときも、降りる時も、ドアが開く瞬間に一瞬だけ心臓がはねた。けれど、それは私の杞憂で終わってしまった。ホテルから出て、待たせている車に向かう。


どうせ、白蘭の忘れた書類なんて必要のない書類なんだろう。必要な書類は私がすべて持っていた、のだから。

もしかしたら彼は私を試しているのかもしれない。自分のところに、私が帰ってくるのかを。


書類を受け取り、ホテルの中に戻る途中にホテルを見上げた。その向こうに広がる青空も。大丈夫、ともう一度自分に言い聞かせて私は歩き出した。大丈夫。
何度自分に言い聞かせてもその言葉で安心することは出来なかったけれど、言わないよりはましだった。



大丈夫。



今まで、何があっても大丈夫だったんだ。今回もきっと大丈夫。


(彼らは大丈夫、だ)


ホテルの最上階。高価な絨毯がひかれた、その廊下で私の足音が響くことはなかった。近づく部屋はもうすぐ目の前。息を吐き、ツナと白蘭がいるであろうドアをノックする。入って良いよ、と言う白蘭の声が聞こえてきて私はドアをあけた。


私はボンゴレの、じゃない。ミルフィオーレの、だ。


ドアをあけて、目に入るのは懐かしいと感じてしまう蜂蜜色の髪の毛と、銀色の髪の毛をした二人だった。いきなり入ってきた私を見た瞬間に二人の目がこれでもか、と言うほど開かれるのが分かる。
私はそれを驚きもせずに、ただ一瞥して、白蘭のほうへと歩み寄った。



「ありがとう、チャン。じゃあ、これで停戦の話し合いは終りってことで」



にっこりとそれはそれは嬉しそうに笑いながら白蘭はいまだ驚いているツナと獄寺の顔を見つめた。しかし、ツナも獄寺もその言葉が耳に入っていないのか私の顔を見て、驚くだけだった。



「っ、なんで、が…!」

「新しい僕の部下なんだ。ね、チャン」



白蘭の楽しそうな顔。その顔がやけにムカついて、イラついて仕方がなかった。それでも、私はそれを顔に出すことは叶わず「はい、白蘭さま」と言いうことしかできなかった。



「テメー、に何しやがった!」

「別に何もしてないよ。それに、折角停戦したのに、ダイナマイトなんて向けて良いの?」



白蘭の言葉に私は背筋に冷たいものを感じた。このままではいけない。獄寺の手にあるダイナマイト、それが白蘭のほうに投げられたら折角の停戦もすべてなかったことになってしまう。

嫌だ。みんなが傷つくのなんて嫌だ。

よみがえる記憶。死んでいった部下。そして、思い浮かんだ血まみれの仲間達の姿。想像するだけでゾッとするような光景に私は「白蘭様!」と周りの注目を集めるかのように、声を荒げた。その声に三人の視線があつまる。
震えそうになる声になんとか力を入れて、私は顔をあげた。真っ直ぐとツナと獄寺のほうを見た後に、視線を白蘭へとやる。



「白蘭様、話が終わったんならここにいる意味はありません。帰りましょう」

「うん、それもそうだね」



じゃあ、またね?と白蘭はツナと獄寺へと笑みを浮かべる。二人はその笑みを見て、また何かを言おうとして口を開こうとした。
だけど、私が何も言わせなかった。言わせるわけにはいかなかった。



私の計画の邪魔させない



「まだ、」

「沢田様」


沢田様。心無い声で紡ぐ名前ははじめての呼び方だった。本当はツナ、って呼びたかった。だけど、私にはそれは許されない。白蘭の部下なのだから。ツナの視線と私の視線が交わる。酷く驚いた様子で、何も言われてはいないのに、どうして、と言われているような気分になった。でも私はどうして、と聞かれてもその問いに答えることは出来ない。

私は今は、貴方に控える部下ではないから。



「もう話は終わりました。自ら再び戦いを始めるほど、貴方は愚かではないでしょう」


だから、もう何も言わないで。

そうすればツナが嫌いな争いはなくなるの。ツナが心を痛めることも、他の皆が新たな傷をつくることも。すべてなくなる。折角の機会を無にするような真似はしないで、と私は心の中で呟いた。





「私達はこれで失礼します」

!」



もう会うことはないでしょう、と言う言葉は飲み込んだ。ツナが私の名前を呼ぶ。それに答えることができないのが、とてももどかしく悔しかった。今にも泣きそうな声で私を呼ぶツナの声が、耳から離れない。その声に振り返ることなく私は部屋を出た。

バタン、とドアが閉まる音と共に気がぬけそうになったけれど、ここにはまだ白蘭がいる。私は立ち止まっている白蘭を見た。



「これで、君の願いは叶ったね」



じゃあ、帰ろう。そう言って歩き出す白蘭の背中を私は追いかけた。私は何処に帰れば良いというんだろう。私の帰る場所はミルフィオーレではないのに。ミルフィオーレに帰っても、おかえり、と言ってくれる人は一人もいないのに。

逃げ場所もなく、帰る場所もない。

それもすべて自分が捨ててしまったからだ、と思うと自然と自嘲じみた笑みをこらえることはできなかった。だけど、これで私の願いは叶った。血まみれの彼らを見ることはない。これで、すべて終わったんだ。
ごめんね、ツナ。私の名を何回も君は呼んでくれたのに、私はそれに応えることができなかった。獄寺のあの瞳もきっと、忘れることは出来ないだろう。久しぶりに見た二人が、少しだけやつれたように見えたのがどうか私の勘違いであれば良いのに。




もう会うことはないでしょう




(だから、笑って?)











(2008・07・31)