白蘭の部屋から、逃げるように出て、私は早足で自分の部屋へと戻っていった。白蘭から与えられたあそこも真っ白な部屋には変わりはない。でも、それでも幾分かはあの白蘭の部屋よりは居心地が良かった。

白蘭は昼食を食べて来い、と言ったけれど今の私は別に空腹感はない。それに、ここに来てから一人で食べる食事は美味しくも感じずにいつもほとんど手付かずの状態で残していた。それに昼食をとる時間なんてとるぐらいならに自分の部屋でゆっくりしたかった。そして、落ち着きたかった。

何を言われても動じぬ心を持たなければ、ここでやっていけるわけがない。それに、また午後からは白蘭の忠実な部下にならなければならないんだから。


私に許されるのはツナたちのことを想うことだけ。

考えるのはミルフィオーレのことだけでよいんだ。


そう自分に言い聞かせ歩けば、私の靴音は静かな通路でよく響いた。ここがボンゴレならきっと、獄寺や雲雀さんに怒られていたにちがいない。だけど、ここはあの場所ではないからどんなに靴音を立てて歩いたとしても怒られることなんてありやしない。
怒られるのは好きじゃない。でも、怒られても良いと思えた。

あの場所に戻れるなら。

このまま逃げてしまおうかとたまに思ってしまう。武器も持たない逃げ腰の私にそんなことができるわけがないのに。
思わず自嘲じみた笑いが浮かんでくるのを感じた私は下を向いたまま、誰もいない廊下を歩いた。


「アンタ、見ない顔だ」


誰もいないと思っていた廊下に響く声。ハッとして、顔を上げればそこには、何かを口にくわえた青年が一人立っていた。金髪の髪の毛、色素の薄い瞳。明らかに日本人のようには見えない。


ここにいるほとんどの人がイタリア語をつかう中、白蘭とレオくん以外で初めて日本語を話せる人を私は見つけた。
青年は何も言わない私をまるで品定めするかのような視線で見てくる。そして、僅かに嬉しそうな表情を浮かべた。何も分からない私はただ、その青年を見ていることしかできない。


「やっぱり……アンタ、日本人だろ?」

「そうですけど、何か」


私が言えば、先ほどよりも口端を上げて笑った。誰、なんだろうか。作業着を着ているあたり、ブラックスペルか、ホワイトスペルかさえ私には分からない。ここにいる隊員なんてすべてを把握しているわけでもない。
だからと言って侵入者なんてここではありえないことだろう。厳重な警備がひかれた、この施設。入ることはおろか、逃げることもそう易々と叶う場所ではない。

「正一が新しく日本人が来たって言ってたんだけどアンタのことだったんだ」

正一。
それはきっと、入江正一のことなんだろう。


彼をここの施設にはいない。ここに来て、一日目の日に彼を画面越しに見た。白蘭から紹介された彼は、何か言いたそうに私の顔を見ていたけれど結局何も言うことはなかった。入江、くん。マフィアだと知らずに彼と出会ったのはまるで、神様の悪戯かと思っていた日もあった。
あんなに良い人そうな、人が。と思ったけれど、ツナだって、どんなに優しい顔をしていても彼もマフィア。私達はもう子供でも、何も知らないわけでもない。
裏の世界を知っている人間なんだ。見た目だけで人を判断するな、というのはこの世界に入って嫌という程思い知らされていた。


それでも、少しだけ悲しかったのは事実だ。入江くんはきっと、私と彼がマフィアでなかったなら友達になれていたことだと思うから。
でも、きっとなんてものは絶対にありえることではない。

私と彼がマフィアだというのは変わらぬ事実で、つい先日までは互いに命をかけあっていたんだ。


「……多分そうです。貴方は?」

「ウチはスパナって言うんだ。アンタ、確かだったっけ」

私はその問いに頷き、よろしくお願いします、と言って軽く頭を下げた。目の前の青年は日本人はやっぱり礼儀正しいんだな、と感心するように私の方を見ていた。日本人だから、礼儀正しいと言うことはないと思ったけれど、それは口には出さなかった。


「敬語は良い。年も近いし、それよりも、ウチと茶でも飲まないか?」


は?、と思わず呆然とした顔で相手を見やれば、ウチ、日本も日本人も好きなんだ、と目の前の人物は人間らしい笑顔を浮かべた。
こんな人間らしい人はここに少なく、いつの間にか私は頷いていた。







連れてこられたのはスパナさん、の部屋だった。和を感じさせる部屋からは彼の日本好きが感じ取れて、そして、久々に感じた和の空気に私は和んだ。思わず雲雀さんを思い出す。畳とふすま。そして、着物を纏う雲雀さんの姿。

群れるのが嫌だといって作らせた屋敷よりも、ボンゴレの屋敷にいることのほうが多かった雲雀さんだけど、たまにその屋敷に行くこともあった。その屋敷には和のすべてがそろっていたような気がする。
私はボンゴレの屋敷も、もちろん好きだったけど、その雲雀さんの屋敷も好きだった。静かに流れる時間が、とても心地よかったことを昨日のように覚えている。

だけど、もうあの場所にも私はいけないんだ。


「はい、お茶」


そう言って出されたのは、ミルフィオーレに来てからずっと飲んでいた紅茶ではなく、緑茶だった。暖かい湯のみ。
雲雀さんも機嫌が良かったたときはたまに、淹れてくれることもあったけ。憎まれ口を叩きながらも、淹れてくれたお茶は葉のせいだけでなく、本当に美味しいものだった。そして、美味しい、と言ったときに僕が淹れたんだから、当たり前だろと言いながら見せてくれた雲雀さんの笑顔も、懐かしい。


湯飲みに口をつけて、一口飲めば、苦くてもその味はやはり懐かしい味で、雲雀さんが淹れてくれたお茶ともまた違った味だけど、根本にあるものは同じだった。
暖かいお茶は体まで温かくしてくれて、ミルフィオーレに来てから、口にしたもの中で初めて美味しいと感じたものだった。紅茶も好きだった。緑茶も好きだ。だけど、私は一番、誰かが淹れてくれたお茶が大好きだったんだ。



不器用なツナが淹れてくれた渋みの多いお茶も。獄寺の淹れてくれた意外と美味しい紅茶も。お寿司と一緒にだしてくれた山本のお茶も。ランボくんが「さんの為に淹れたんですよ」と言ってくれたお茶も。
笹川さんや、雲雀さん、骸さんが淹れてくれたお茶。そしてボンゴレの誰かが淹れてくれたお茶も、すべてが、とても美味しくてたまらなかった。


誰かが淹れてくれたお茶。そのお茶を一緒に飲むからこそ、とても美味しかったんだ。


「美味しい…」

「そうか。なら良かった」


彼の淹れてくれたお茶も、とても美味しいものだった。久しぶりに誰かが淹れてくれたお茶を誰かと一緒に飲んだ気がした。


「これはウチのお気に入りの茶なんだ」


その後、日本の話を聞かせてくれ、と言う彼に私は色々話してあげた。もし、なんてありえるわけではないけれど、それでも、目の前の彼に一度雲雀さんの屋敷を見せてあげたいと思った。彼はあの屋敷を見れば、直ぐに魅了されることだろう。子供のようにはしゃぐ姿が簡単に思い浮かんで、それでまた笑った。



ありがとう、と呟いたのは久しぶりに飲んだ美味しいお茶へか、それともこんな暖かい気持ちにしてくれたお礼か。
多分、その両方に私は、ありがとう、と言いたくなった。




良かった、と思った。私が運が良かったのだと。誰もよりどころがないと思っていたところで、こんな良い人に会えたのだから。
この人と話すことでボンゴレに帰りたいと思い気持ちが弱くなったわけじゃない。それでも、嬉しかった。誰かと一緒にお茶をこうして飲むことができたことが。純粋にマフィアなんてことも考えずに会話を楽しむことができたのが。

まだ、私は大丈夫だ。彼との会話は少なからず、私に元気をくれた。


「また来ても良い、かな?」

「その時は、日本のお茶菓子準備しとく」


来ても良い、の代わりに帰って来た返事に私は、ありがとう、と言った。その言葉が嬉しかった。私なんかが話す日本の話なんて面白みもなかったと思うのに、それでもまた来て良いと言ってくれる彼の優しさに心の中で感謝した。

じゃあ、と言って出て行こうとすれば「」と言ってスパナさんは私を呼び止めた。どうしたんだろう、と思い振り返れば「手、出して」と言われ、私はそれに素直に従い手をだした。その手の中に置かれたのは、いくつかのアメ。先ほどからスパナさんが舐めているアメが私の手の中にあった。


「疲れた時は甘いものだ。無理はするな」


くしゃり、と頭を数回撫でられる。まるで子供のように扱われているにも関わらず、私は何も言わなかった。ミルフィオーレの中で見つけた暖かい掌に、私はツナとの会合の日への覚悟を決めた。私はやれる。やらなければならないんだ。ここに何のためにきたのか。そう、私は彼らを守るために来たんだ。その時、いくらでも自分は傷ついても構わないと思ったじゃないか。グッと握り締めた手に、私は自分がここでやるべきことを、自覚することができた。




ありがとう




(私のやるべきことは、彼らを守ることなんだ)










(2008・07・23)