つかまれた腕。見上げた視線の先には、思ってもいなかった人物がいた。「」と私の名前を紡ぎながら、その額には僅かに汗が滲んでいる。
「入江くん」
厄介な人物につかまってしまったと、心中でため息を一つ零した。逃げようとしていたことがバレるとは思わないけれど、彼のこれからの言動によって私のこれからの行動は左右される。
入江くんだって、回線が切られていることには既に気づいているようだしこの様子から見ると誰がここに侵入してきたのか分かっているのかもしれない。
そう思って、私は白蘭の意図が読めたような気がした。
彼はツナ達が、私を連れ戻しにくることが分かっていたのかもしれない。だからこそ、彼は日本にいるはずである入江くんをここに呼んだ。ボンゴレを迎え撃つために。
「なんだか大変なことになりそうだからね、連絡しておいたんだ」
可笑しいと思ったんだ。入江くんをこんなところに呼ぶなんて。白蘭が意味もなく、入江くんを呼ぶわけがなかったんだ。入江くんも自分がここに呼ばれた理由を分かっていたんだろう。
ボンゴレがここに来ると。
今の私は、銃を持たず対抗する術を持っていない
彼が、ボンゴレがここに来た理由を分かっているのなら、このまま私を見過ごすことはしないに違いない。どこかに、連れて行って拘束するということも考えられないこともない。他の人たちならまだしも、相手は入江くんだ。私がどんなに頭を使って考えたとしても、その手が通用するなんて思えなかった。
相手は、ここまでミルフィオーレを大きくした人間。何も持たない私が敵う相手ではない。
掴まれた腕を振り払ったとしても、その後に何をすべきなのかが分からない私はただ入江くんをまっすぐに見上げることしたできなかった。
「入江くん、どうしたの?」
何も知らないふりをして、私は入江くんに問う。
「さっき爆音が聞こえたけど」
一瞬でも良い。隙ができれば、その隙を見て逃げ出そう。見る限りでは、今の入江くんは武器と言うものほどの武器は持ってない。私を掴んでいないほうの手には書類。もしかしたらどこかに武器を隠し持っているかもしれないけれど、この複雑な施設内なら逃げ切れるかもしれない。
希望と言うには小さすぎるものだったけれど、私はそんな一欠けらの希望にもすがりつきたい気持ちで一杯だった。
彼らに会いたい
その思いだけが今の私を駆り立て、私をつき動かしている。正直になった自分の思いは自分でも制御できないくらいに強いものになっていた。
ジワリ、と滲む汗。それを拭うこともできずに、私は彼の口から言葉が紡がれるのを待っていた。
「ボンゴレが来た」
心臓が音をたて、私の脈拍があがる。もうこの腕を放してもらえることなんて、ない、と思いつつも、入江くんが私の腕を掴む手にそれほどまで力は感じなかった。
振り払おうと思えばきっと振り払うこともできるだろう。
だけど、今それをしなかったのは入江くんが眉間に皺をよせ、困ったような表情をしていたから。どうして、こんな表情をしているんだろう。少しだけ泣きそうな表情にも見えないこともない表情に私は動揺した。
彼がこんな表情をしている理由が分からなかった。入江くんは、ボンゴレが来ることなんて分かっていたのだったらこんな表情をするはずがない。それに、私を捕まえたのだから、尚更。
「きっと君を迎えに来たんだと思う」
思う、と言っているわりには断言に近い口調だった。
そして、彼は「、君はどうしたいの?」と私の目を見ながら聞いた。
どうして、そんな事を聞くの?
スパナさんにも聞かれたその一言を、まさか入江くんに聞かれるとは思わなかった。ここで正直に答えたら、私はどうなるんだろうか、と頭をフルに使い考える。嘘、を言っても見破られるだろう。だけど、正直に言ってしまうのも気が引けた。
帰りたい、と言って素直に帰らせてもらえるわけがない。彼がここに呼ばれた理由。それは私をここに繋ぎ止めておくためだろう、と言うのはなんとなくだけど分かったから。でも、と思い私は入江くんの表情を再び伺う。
「正直に答えて欲しい」
はっきりと言われた言葉に、私は思わず「帰りたい」と言っていた。咄嗟にでてしまった、その言葉に自分でも驚く。
言ってしまったと思い入江くんの顔を見れば、入江くんは特に驚くこともせずに、まるでその答えが始めから分かっていたかのように頷いていた。少しだけそのことに安心した、私は息をのみ、
「皆のところに、帰りたいよ、入江くん」
まるで縋りつくように、私はその言葉を入江くんに言った。彼ならこの願いを聞いてくれるんじゃないかと、入江くんの表情を見て、私はそんなことを思っていた。
入江くんはその言葉に、私の腕を放し、一歩私から離れる形で後ろへと下がる。
「僕は君を逃がすことに加担はできないけど、ここを見逃すことはできるから」
思ってもみなかった言葉に驚き、目を見開けば、入江くんは少しだけ困ったように笑っていた。だけど、すぐに真剣な表情に戻して私をまっすぐに見つめる。私も同じように入江くんをまっすぐと見つめていた。
辺りに人はいないものの人の声が響きわたり少しだけ、騒がしくなってきている。回線が繋がっていない今、きっとミルフィオーレは混乱しているんだろう。で
も、今の私にはそんな辺りの謙遜なんて聞こえてこなかった。今、私の耳に入ってくるのは入江くんの言葉だけ。
「僕はここで誰にもあっていない。、にはあっていない。だから、」
一呼吸おいて、「だから、早く逃げて」と入江くんは言った。こんなこと、彼が言ってよい言葉ではないのに。それでも、彼はただまっすぐに私の顔を見ながら言っていた。
彼がここに呼ばれた理由。それが私を繋ぎ止めるため、だと言うなら彼は今その職務に真っ向から対立し、白蘭の部下としては間違った行動をしているはずだ。何だかんだ言いつつ白蘭の忠実な、部下だと思っていた入江くんがこんな事をしてくれるなんて思ってもみなかった。
彼も大いに悩んだに違いない。だけど、彼は私を見逃してくれると言う。
バレたら、自分が罰を受けるかもしれないと、もしかしたら死という可能性があるにも関わらず、彼は私に逃げろ、と言ってくれる。なんて、優しい人なんだろう。涙がこみあげるのを感じながらも、今は泣いている場合じゃないと思った私は唇をかみ締め我慢する。
手を握りしめ、顔をあげて、入江くんを見上げた。
今の彼は、初めて会った時の彼と幾分も違いはなかった。とても、優しい青年だった。
「ありがとう」
一言、それだけを口にして私は入江くんに背を向けて走りだしていた。ありがとう、と何回もその言葉を心の中で呟きながら。入江くんにも、スパナさんにも届かないかもしれなくても、それでも私は何回もありがとうを、呟き続けていた。
さぁ、走り出そう
(2008・08・26)
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